ライトノベルは青少年に対してたくさん売るための手法なのです」というのが新城カズマ氏の結論なのですが、私の意見はちょと違います。
ライトノベルの本質を探りたければ、ラノベラノベでないものを比較すればよいのですが、おかゆまさき大江健三郎を比較してもわけがわからなくなるだけですので、ラノベとそうでないもの両方を書いている作家さんの作品で比較してみましょう。小野不由美さんとかどうでしょうか?「十二国記」はラノベ扱いで「屍鬼」は一般小説。この違いは何なのでしょうか?「十二国記」自体も、X文庫と講談社文庫の両方のレーベルから刊行されている特殊なタイトルですが、なぜそうなってしまったのか、この辺にライトノベルとは何なのかの謎を解く鍵がありそうです。
では、まず「屍鬼」を考えてみましょう。ある辺境の町が吸血鬼によってだんだんと支配されていく恐怖を描いたモダンホラーの傑作と言われていますが、吸血鬼とか、都会から隔絶された田舎町とか、設定されている舞台装置は、現実にはほとんどありえないものです。むしろ「吸血鬼ハンターD」の世界に近いかもしれません。「屍鬼」にあって「吸血鬼ハンターD」にないもの。それは登場人物の自己批評性ではないでしょうか。「屍鬼」において主人公は、やたらめったら鬱陶しい思索を巡らしますが、Dはそんなことしません。ここ、ポイントです。
ライトノベルにおいて登場人物は、客観的な視点を通した深い思索や考察をおこなうことはありません。登場人物が思ったり考えたりすることは、主観視点でおこなわれ、思索レベルも幼稚です。ライトノベルに一人称が多いのもそのためです。所詮記号の集積ですからそれはしょうがないことだと思います。
嫌オタク流」における更科氏の「オタクは10歳児」「萌えは10歳児のためのポルノ」という言葉をお借りすれば、「ラノベは10歳児のためのエンターテイメント小説」なわけですから、ライトノベルの登場人物は10歳児が理解できる範囲のレベルでしかモノを考えてはいけないことになります。そりゃ必然的に幼稚ですよね。
では「十二国記」は、その中ではどう位置づけられるのでしょうか?「十二国記」の大きな特徴は、登場人物の幼稚な世界観を話の途中で否定してしまうことです。
典型的なのは「風の万里 黎明の空」における鈴。いかにもガキっぽい思考だったのが、物語の中で成長し、自分の誤りや甘えに気づき、大人の考え方になっていきます。「華胥の幽夢」では、重税を課す政府を革命で倒し、税金を廃した新国王による統治がうまくいかないことを描くことによって、既存の権力を否定するだけでは何の意味も無いことを10歳児にもわかるように教えます。つまり「十二国記」は、10歳児にわかるように書いていながら、その幼稚な思考を登場人物を成長させることで否定し、自己批評性を持つことによって、ライトノベルの枠を飛び出しているのです。つまり大人の価値観世界観でも物事が語られるため、大人の読者からも支持が高く、レーベルが二つにまたがることになったと言えるのではないかと思います。
だからと言って、ライトノベルを否定する気はありませんし、そういう幼稚な登場人物がワイワイ馬鹿なことをやってるのが楽しいんだよ、というのがライトノベルの楽しみの一つであるのは確か。私も読むときはそういうのを期待して読みます。