4ヶ月たって

3月11日の震災の日のことを、忘れないように書きとめておこうと思う。
あの日、僕は偶然にも福島にいた。今度新しくできる店の棚詰めを手伝ってほしいということで、福島まで来ていたのだ。その店舗は福島駅から車で20分ぐらい行ったところにあって、3月11日は搬入後の荷出しも一段落し、丁度帰宅する日のはずだった。

地震が起こったのは、丁度店内のレジカウンターのあたりで作業をしていたときだった。ゴゴゴという地鳴りのような音が響いたと思うと、直後に凄まじい揺れが襲ってきた。咄嗟にすぐ傍にあったガラスのショーケースが倒れないように支えて踏ん張った。ガラスの棚が倒れてしまうと大変だからだ。
揺れはなかなか収まらなかった。それどころかさらに激しくなり、しまいには壁や什器が波打ち始めて、商品がバンバン落下し始めた。コンクリートってこんなに波打つものだったかと思わず目を疑った。こんなにひどい揺れは神戸で経験した阪神大震災の時以来だった。
「chakichakiさんも早く逃げてください!」という声で、僕もガラス棚を支えるのは諦め、倒れた什器を避けながら外に走った。僕以外のスタッフはすでに全員屋外に走って退避済み。僕が建物を出たのは最後だったようだ。とりあえずは全員ケガもなく無事。ひどい揺れだったが何とか建物も崩れたりはしていないようだ。

外は雪がちらついていた。みんな作業の途中であわてて外に逃げ出したので、上着も着ておらず、ものすごく寒い。とりあえずケガ人はいないことなどを、みんな誰かに連絡しようとしていたが、この時点でケータイは完全にアウト。メールは送信できたが、送信ボタンを押せただけで、受信がアウトになっていたし、おそらく届いていなさそうな感じだった。
情報が完全に遮断されてしまい、周りがどうなっているのかよくわからないが、店の近所を見渡した感じでは、特に目立った被害はなさげ。ただ余震がこわい。そうしているうちに、店舗スタッフの方は「本日作業中止」になり、帰宅できる人は帰宅せよという命令がでた。当然の判断だろう。
しかし僕を含む応援に来たメンバーは、店の電気も点いていたし、外にずっと避難してるのも寒いし、帰れるわけでもないし、じゃあ少しでも作業を進めるために、余震に注意しながら夕方までは店に残って作業を続けましょうか、ということになる。店内は棚から落ちた商品でぐちゃぐちゃになっていたが、幸いにも什器が倒れたりしているところは、ほとんどなかった。まずは、棚から落ちた本を元に戻す。まだ箱から出しただけで、並び替えまでは完全に終わっていなかったのが不幸中の幸いだった。大した時間もかからずに復旧が終わる。とは言え余震がひっきりなしに発生し、そのたびに屋外退避になるので、棚から落ちた本を戻しただけでそれ以降はあまり作業にならなかった。
今日の揺れの大きさだと新幹線も停まってる可能性が高いし、それだと家に帰ることが出来ない。戻り予定のメンバーは早めに切り上げませんか?という話になり、結局明日以降も居残る予定のメンバーが車を出してくれて、僕を含む3人が、先に福島駅に向かう。
福島駅への道は市街に入ると大渋滞。阿武隈川にかかる橋のたもとにパトカーが停まっていて車両通行止めになっていた。どうやら渋滞は、この橋の通行止めと、周辺の信号が停電で全部消えてしまっているために発生しているものらしかった。やむを得ず途中で車を降りて徒歩で駅に向かうことにする。橋はあちこちに亀裂が入っていたが、人は通行可能だったので余震にびびりながらもダッシュで走りぬける。橋の下では水道管が破裂しているらしく、盛大に水が吹き上がっていた。
遠くのほうで消防車や救急車がサイレンを鳴らして走っているのが聞こえる。店の周辺では、大きな影響はなさそうに見えたが、ブロック塀が崩れていたり、屋根や壁が崩壊していたり、結構被害が大きいことが段々実感として沸いてくる。そもそもほとんどの場所では地震の後ずっと停電しているようだった。東北電力やガス会社の人が家を一軒一軒まわっていて、普段は静かであろう住宅街もザワザワとしていた。ガス・電気・水道のライフラインが全部ダメになっているようだ。店の周辺で電気が点いていたのはむしろ奇跡的なエリアだったのだ、といまさらのように気づく。


日が暮れる前になんとか福島駅に到着。駅前は人だかりしており、かなり混乱している様子。予想はしていたが、やはり東北新幹線は完全に停まっていた。新幹線どころか在来線すらも完全にストップしており、運転再開のめどは立っていないと書かれた紙が貼られていた。そもそも福島駅の駅舎自体すら完全に立入禁止になっており、電車に乗れないどころか駅にも入れない有様だった。深刻な事態だ。
バスの多くが運転を中止しており、当然だがタクシーなんか一台もなかった。ダメ元で駅前のレンタカー屋に行ってみたがすごい行列で、しかも停電のためどこも営業していない。駅前の商業施設も全店舗が営業を休止しており、どこかの水道管が破裂していて、大きな水溜りを作っていた。
駅周辺の人だかりは、帰宅難民だったのかとようやく気づいたが、僕たちもその一員に違いなく、一瞬途方にくれる。僕たちはこの土地では異邦人だったし、帰る家もなく、土地勘もなく、軽い出張スタイルだったから何も持ってきてもいなかった。旅先で非常事態に遭遇すると大変なんだな、と思わずため息。
さて、となると、今夜はどこかに宿泊しなくてはならないのだが、どこかに泊まることは可能なのだろうか。
あちこちのホテルを覗いてみたが、どこのホテルも停電で真っ暗だ。頼りないキャンドルの光に照らされたホテルのフロントに行くと、営業どころか建物自体も閉鎖する旨を伝えられる。
「エレベーターも止まっておりまして、客室自体への立ち入りもできません。ロビーもじきに閉鎖しますので、避難所に行ってください。第4小学校というのが近くの避難所になります」と言われる。なるほど、避難所か。
まさか、避難所に行くことになるとは・・・と、思いつつも気持ちを切り替える。早く行かないと日が暮れてしまいそうだ。第4小学校と言われてもどこなのかさっぱり分からないし、日が暮れたら電気も点かない雪の中で遭難してしまう。ここからはiPhoneGPS地図機能が頼りだ。どこまで充電が持つだろうか。

避難所を探している途中で、営業しているセブンイレブンを見つける。照明はついていなかったが、蝋燭と懐中電灯で営業しているようだ。昼以降何もご飯を食べていなかったし、このままだと夕食と明日の朝食も食べられるかどうかあやしかったので、とりあえずこの店で飲み物と食料を調達することにする。
店内はアルコール臭かった。地震の揺れで酒瓶がいっぱい棚から落ちて割れたのだろう。お弁当だのパンだのペットボトルだの懐中電灯だのカイロだのはすでに品切れで、ほとんどの棚はすっからかんだったが、それでもレジには長い行列が出来ていた。ポテチ系のスナック菓子や紙パックのジュース、プロセスチーズなどがかろうじてまだ棚にあったので、それを購入することにする。冷凍食品やアイスクリームもまだ在庫があったが、解凍できないし寒いという理由もあったのだろうが、こんな状況下でも人気が無かった。
それにしてもコンビニの店員さんの奮闘ぶりが素晴らしかった。当然POSレジは停電で動いておらず、どうやって販売業務をしているのだろうと思ったら、発注用か何かのハンディ端末で価格を調べて、私物のケータイの電卓機能を使って合計金額を計算して販売しているのだった。店員は6名ぐらいいて、1名が行列整理係、1名がハンディ端末で数字がでないものを売場までダッシュして値札を見にいっては「それは○○円!」という係、残り4名でレジを分担してやっていた。あんな状況でも営業して頑張っておられた店舗の方には本当に感謝している。おかげで僕はその日は食事をとることができた。コンビニが本当に重要な社会インフラであることを痛感する。
店を出たら完全に日が暮れていて真っ暗だった。傍らの道を車が走っていて、その通る車のヘッドライトだけが明かりらしい明かりだった。迷った末に第4小学校にたどり着く。
体育館が避難所になっていたのだが、停電の暗闇の中、そんなに広くもない体育館の中に何百人もの人がひしめき合っている光景は異様としか言いようが無かった。地元のテレビ局がいくつか取材にきていたが、レポーターのインタビューにこたえようとする人は誰もいない。仕方なくアナウンサーは、暗闇を背景に一人でレポートをしていたが、テレビ局の人もあまりの環境のひどさに不憫に思ったのか、大型の投光器を一つ残して置いていってくれた。おかげでちょっと助かった。
第4小学校の体育館には、2時間ぐらいいたのだが、避難してくるひとは増える一方で、外まで人が溢れそうになっていた。すると市役所の方が来られて「近くにある橘高校の体育館に移ってください、そこは停電していませんので、ここよりはいいです、全員移動をお願いします」というアナウンスがあり、ゾロゾロと何百メートルかを集団で歩くことになった。それは花火が終わった後に暗い夜道を帰途につく感じにすこし似ていたが、歩くみんなに笑顔はなく、僕らも正直寒さと不安感でただただ疲れきっていただけだったように思う。

つづく