7ヶ月たって

先日、ようやく被災地である東北に行くことができた。僕としては3月12日以来7ヶ月ぶりのことになる。
僕が地震の日に避難所で過ごすことになった福島、津波による被害が最も苛烈だった石巻を回った。どうしてもその後どうなったのか、この目で見ておきたかったのだ。
東北の静かな一地方都市でしかなかった福島は、皮肉なことにこの地震で世界的に有名な町になってしまった。
福島第一原子力発電所が最初に爆発事故を起こしたのは、地震翌日の3月12日の15時30分頃だった。丁度僕らはそのころ福島から国道4号線を南下し、郡山から須賀川間を走っていたと思う。原発からは約50kmの地点だった。爆発とほぼ同時刻に車内のNさんのケータイに母親からメールが届き、それで事故を知ったのだった。
地震の翌日、避難所で一夜を過ごした僕らに残された選択肢は少なかった。ホテルから店までの往復用に使っていたレンタカーに乗って福島を脱出するか、それとも避難所に残るかどちらかしかなかった。装備も何もなく何も出来ない僕らが避難所に残るのは、地元の方の迷惑にしかならないと判断し、結局車で帰ることにしたのだ。
東北自動車道は通行止めになっていたので国道4号線を南下するしかなかったのだが、信号は停電で機能していない上、あちこちが地割れで寸断されおり、おまけにガソリンは全く入手できないという不安を抱えたままの道のり。10時間かけて何とか大宮までたどり着けたのは本当に幸いだったと思う。判断は正解だった。
しかし、東京は東京で異様な状態になっていた。福島から戻ってきた僕が事情を知らず、蛍光灯を一つつけただけで上司からものすごく怒られたこともショックだったが、米や水や電池やガソリンがどこもかしこも買占めで何もない状態になっているのもショックだったし、照明を消した真っ暗なパチンコ屋の店内で大勢の人がパチンコをやり続けている光景は衝撃的ですらあった。街全体がもう、計画停電でおかしなことになっているのだが、それが日常にとりこまれているのが異様というしか言いようが無かった。
僕自身はその一週後に九州に転勤になったのだが、コンビニの看板照明が消えているということ以外は、地震前と何も変わらない日常の時間が流れていた九州の街には、心底ほっとしたことを告白する。そして、同時に福島で何も出来なかった自分には大きな無力感を覚えていた。本屋なんか、震災のときに何の役にも立たなかった。もっとこういうときに人々の役に立つ職業を選んでおけばよかった。本気でそう思った。
7ヶ月ぶりに訪れた福島は、地震後の混乱はもうすでになく、平穏を取り戻していた。ように見えた。
書店に行くと、一等地には原発放射能関連の本、そして地震被害の写真集が山積みになっていた。「放射能測定器一泊二日無料レンタル」というポスターもあちらこちらに貼ってあった。平穏に見えるだけで、この街は見えない脅威にさらされているのが実感できる。
この店も地震当日は天井が落下し、スプリンクラーが作動して商品もずぶぬれになり、一旦完全閉店に追い込まれたのだそうだ。地震から3ヶ月で何とか再度OPENし「この店を東北復興のシンボルにしていきたいと思います」と社長さんが涙ながらに語っていたのをどこかのニュースで見たのを思い出した。
「食べるもの、住むところが元に戻っても復興とは言わないんです。本当の復興はね、うちのような店が元に戻って初めて復興って言うことができるんですよ」
再OPENの日には、開店を待ちかねた近隣の方が長い行列を作っていた。
「書店が復活して初めて復興と言える」というその言葉に、僕は少し救われた気になった。

津波で甚大な被害を受けた石巻を訪ねた。津波で流されてしまった書店を建て直してリニューアルOPENするという話があり、僕も少しだがお手伝いすることになったのだ。僕が出来ることなんて本当に何も無いのだが、こうやって店をOPENすることで地域の復興に少しでも役に立つのであればという思いだけは忘れないつもりだ。
街の中心部を走る石巻バイパス周辺は、車で走ってみても特に目立った被害も見えず、2階の高さまで水没したというのが信じられないくらいだ。しかし石ノ森萬画館がある湾岸の道路周辺は、震災で発生したガレキの集積場になっているらしく、三段積みになった壊れた自動車の壁が何千台分も続いていたかと思うと、何百メートルもある木材の山、延々と続くガレキの山脈、そしてものすごい粉塵の中、今なおガレキをそこに運び込んでいくトラックの長い長い行列という、もっと信じられないもの光景が繰り広げられていた。海沿いは、建物の1階が根こそぎ抉られてなくなっているところ、完全に流されて更地になってしまっているところが広範囲にわたって続いている。1階が完全に無いのに残っている2階部分の窓に布団を干している家もあった。石巻では避難所が今月完全に閉鎖されてしまった。そんな家でも住むしかないのだろう。
繰り返し書くけれども、そんなところに書店を再度出店しようとしている方々がいる。それを楽しみに待っている地元の方々がいる。僕はそれを手伝いたいと思う。
本屋のある日常を取り戻すことが、本当の人の生活には必要なんだということを、僕は今回の震災で被災地の方に教えられた。
僕自身、震災で長い無力感無気力感にとらわれたけれども、今度直接的に復興のお手伝いをすることで、何かを失ってしまった僕自身も取り戻したいと思っている。本屋という職業を選んでよかった、本気でそう思いたいです。