前作から5年(もうそんなにたつのか…)、東浩紀のオタク論の今回のターゲットはライトノベル。前作は確か美少女ゲームのシナリオやアニメを代表的な例にとって、オタクの消費行動=データベース消費=ポストモダニズムみたいな論の展開をしていたような気がします。うろ覚えですが。
今回は、二部構成になっており、前半が大塚英志の「キャラクター小説の作り方」を下敷きにしたり反論したりして、ライトノベルを「文学的」にどう評価すべきかということを論じています。後半は、なぜそう言えるのか?を具体的な作品を使って例証しようとしています。
で、どうなのか?というと、これは微妙ですねぇ。木を見せて森を見せないという社会学者がよく使ってくるワザで、確かに筋は通っているように見えるのだけれども巧妙に論理の飛躍が隠されていたり、部分部分ではそうしたことが言えるかもしれないが、全体で見たら本質から論点がずれてないですか?という疑問が残ったりと、各論賛成総論反対、と言わざるを得ない印象です。
私の乏しい脳みそでまとめるとこんな感じでしょうか?
①「大きな物語」消滅後の物語構造はデータベース消費型が主流になりつつあり、ライトノベルなどのキャラクター小説がその例である。
②データベース消費型の物語(ライトノベル)は、メタ物語的なキャラクターを支点に組み立てられており、これぞポストモダン構造にあると言える。
大塚英志は、自然主義的文学を引き合いに出しながら、こうしたキャラクター小説には可能性はあるものの、ゲーム的なスタイルでは「死」を書くことができず、それでは「文学」にはなりえないと言う。
④しかしゲームのような小説では「死」や「生」をメタ的に相対化することによって、その重みを描くことが出来るという「ゲーム的リアリズム」と呼べるスタイルがあり、これが新しいポストモダン時代の「文学」と言える。
⑤このような物語構造をもつ、桜坂洋All You Need Is Kill」や竜騎士ひぐらしのなく頃に」、舞城王太郎九十九十九」が、こうしたポストモダン文学を代表している。
結局これだけしか言ってないような気がします…。しかも③→④にかなりの飛躍が…。しかも②と④⑤は矛盾している気が…。いや、まぁ私のアホな脳みそでは東浩紀の言ってることの半分も理解できてないんでしょうが…。評価B−